2007年02月23日
記して撮る
最近、撮る写真が変わってきました。
撮り方を変えたつもりはないのですけど、出来上がった写真をみて以前とは違うなぁと自分で思うのです。
写真に関しての基礎技術的なことは一応理解してはいますが、あまりそれにこだわることはなく。
使ってみたい憧れのカメラはありますが、日常的に使うものにそれほどこだわりもなく。
撮りたいと思ったものを好きに撮っているだけなのですが、それでも何か変わったと思うのです。
きっと私の中で何かが変わったのでしょう。
高性能のカメラで美しい風景を撮れば誰でもそれなりに素敵な写真は撮れる。
見た人の心のどこかにしまわれている大切な思い出や感情に優しく触れるような写真。
時を経るうちに忘れかけていた何かに語りかけるような写真。
うまく言えませんけど、私が撮りたいと思うのはそういう写真なのです。
写真を撮る私の感情はもちろん写真にこもっているのでしょうけれど、見る人にそれを感じてもらおうとは思っていません。
むしろ感じないでいただきたい。
それぞれの受け止め方をしてほしい。
同じ写真を見てもきっと見る人によって感じ方は違うわけで。
それが写真の面白いところです。
同じ風景でも切り取り方によって雰囲気の違う写真になったり。
それは写真の難しいところ。
とにかくこれからもこうじゃないああじゃないと言いながら私は写真を撮り続けるだろうと思います。
ときには思うように撮れなくて悩んだり。
また面白いほど調子よく撮りまくったり。
その時その時の感情や自分の置かれた状況に翻弄されながら。
そうやって写真も私も変化していくのだと思います。

写真は学生の頃に友達とよく遊びに行ってたライブハウスの入り口で撮りました。
撮り方を変えたつもりはないのですけど、出来上がった写真をみて以前とは違うなぁと自分で思うのです。
写真に関しての基礎技術的なことは一応理解してはいますが、あまりそれにこだわることはなく。
使ってみたい憧れのカメラはありますが、日常的に使うものにそれほどこだわりもなく。
撮りたいと思ったものを好きに撮っているだけなのですが、それでも何か変わったと思うのです。
きっと私の中で何かが変わったのでしょう。
高性能のカメラで美しい風景を撮れば誰でもそれなりに素敵な写真は撮れる。
見た人の心のどこかにしまわれている大切な思い出や感情に優しく触れるような写真。
時を経るうちに忘れかけていた何かに語りかけるような写真。
うまく言えませんけど、私が撮りたいと思うのはそういう写真なのです。
写真を撮る私の感情はもちろん写真にこもっているのでしょうけれど、見る人にそれを感じてもらおうとは思っていません。
むしろ感じないでいただきたい。
それぞれの受け止め方をしてほしい。
同じ写真を見てもきっと見る人によって感じ方は違うわけで。
それが写真の面白いところです。
同じ風景でも切り取り方によって雰囲気の違う写真になったり。
それは写真の難しいところ。
とにかくこれからもこうじゃないああじゃないと言いながら私は写真を撮り続けるだろうと思います。
ときには思うように撮れなくて悩んだり。
また面白いほど調子よく撮りまくったり。
その時その時の感情や自分の置かれた状況に翻弄されながら。
そうやって写真も私も変化していくのだと思います。

写真は学生の頃に友達とよく遊びに行ってたライブハウスの入り口で撮りました。
2007年02月18日
暮れて撮る
基本的に一人でいるのが好きな私ですが、最近誰かと一緒にいる心地良さを知りました。
それは物理的に一緒にいるということも含めて、いつも近くに感じる存在で。
大切に思う気持ちに不恰好に翻弄される自分をも愛しく思えるくらいなのです。
行動も感情も私にとっては初めてのことばかりで戸惑ったりもしますけれど、ワケがわからないなりに楽しんでます。
一般的に見ると私のやっていることは正しくはないのかもしれませんが、それでも間違いじゃないと思います。
どこまでも自由に。
そういうふうにしか生きられないのです。
たったの一度しかない人生の過ごし方を誰に押し付けられたくもない。
綺麗事を並べて見た目だけ美しくするよりも、不細工でも不恰好でも自分が満足できればいい。
私とそして私の大切な人が。
どうして皆と同じようにしなくてはいけない?
数の少ないものはマイナとして扱われるけれど、それは異常なことなのでしょうか。
必ずしも多数イコール正常とは言えないのではないのでしょうか。
何かに執着するということは生きる力になります。
私にはそれがなかった。
別に明日死んでも惜しくないと、そう思えるように生きてきました。
持っているものを捨てろと言われたら全部捨てられる。
捨てても惜しくない。捨てても死ぬわけじゃない。
だけど今は違います。
捨てられないものを見つけてしまいました。
明日も生きていたいと思わせてくれるものに出会いました。
そのために生きていこうと思います。

それは物理的に一緒にいるということも含めて、いつも近くに感じる存在で。
大切に思う気持ちに不恰好に翻弄される自分をも愛しく思えるくらいなのです。
行動も感情も私にとっては初めてのことばかりで戸惑ったりもしますけれど、ワケがわからないなりに楽しんでます。
一般的に見ると私のやっていることは正しくはないのかもしれませんが、それでも間違いじゃないと思います。
どこまでも自由に。
そういうふうにしか生きられないのです。
たったの一度しかない人生の過ごし方を誰に押し付けられたくもない。
綺麗事を並べて見た目だけ美しくするよりも、不細工でも不恰好でも自分が満足できればいい。
私とそして私の大切な人が。
どうして皆と同じようにしなくてはいけない?
数の少ないものはマイナとして扱われるけれど、それは異常なことなのでしょうか。
必ずしも多数イコール正常とは言えないのではないのでしょうか。
何かに執着するということは生きる力になります。
私にはそれがなかった。
別に明日死んでも惜しくないと、そう思えるように生きてきました。
持っているものを捨てろと言われたら全部捨てられる。
捨てても惜しくない。捨てても死ぬわけじゃない。
だけど今は違います。
捨てられないものを見つけてしまいました。
明日も生きていたいと思わせてくれるものに出会いました。
そのために生きていこうと思います。

2007年02月06日
渡って撮る
とても良い天気だった先週末はカメラを持って出かけました。
土曜日は川へ。
水のある場所は好きです。
撮っているときは私はいつも一人です。それはどんなときもそう。
ファインダーを覗いてシャッターを切る瞬間はいつも独り。
だけどその私を見てくれる人がいるということ。
ファインダーから目を離してカメラを下ろしたとき、そこにいて笑ってくれる人がいるということ。
それは今の私にとってとても大切で。
生まれてから今までずっと感じていた違和感とか閉塞感、その人といるときはそれらの感覚が綺麗になくなります。
とても心地良くて安心するのです。
躊躇うことなく無心に撮ることができるのです。
そして私はカメラの一部になる。
それはとても大切なこと。
暖かくて幸せで愛しい感情なのです。

土曜日は川へ。
水のある場所は好きです。
撮っているときは私はいつも一人です。それはどんなときもそう。
ファインダーを覗いてシャッターを切る瞬間はいつも独り。
だけどその私を見てくれる人がいるということ。
ファインダーから目を離してカメラを下ろしたとき、そこにいて笑ってくれる人がいるということ。
それは今の私にとってとても大切で。
生まれてから今までずっと感じていた違和感とか閉塞感、その人といるときはそれらの感覚が綺麗になくなります。
とても心地良くて安心するのです。
躊躇うことなく無心に撮ることができるのです。
そして私はカメラの一部になる。
それはとても大切なこと。
暖かくて幸せで愛しい感情なのです。
